仙台藩邸が新橋駅の敷地になる「高輪築堤」の建設に関わった平野弥十郎の記録、明治3年(1870)の記事の要約メモです。桑原真人・田中彰編『平野弥十郎幕末・維新日記』(北海道大学出版会 2001年)です。
高輪に転居
この年の正月から、高輪での鉄道の土木工事は進み、弥十郎も人足たちを日々多く差し出したといいます。工事が繁忙になり、宇多川大横町(現:東京都港区芝大門一丁目)の自宅から毎日現場に通うのは不都合として、自宅を祖母の幸に任せ、高輪北町(現:港区高輪二丁目、三丁目の一部)に出張所を設けて移動します。高輪の海岸は目と鼻の先といった場所です。弥十郎の七男・松之助と、炊事など身の回りの世話をする初五郎なるものをともなっていました。
旧薩摩藩邸敷地から石材を切り出す
弥十郎は続けて、鉄道工事に用いる石材の搬出に関わります。
鉄道工事に必要な石材は、まず高輪にあった旧薩摩藩中屋敷の「亀の甲山」などから「古る石」を掘り出すことから始まったとあります。弥十郎に工事への参加を持ちかけた薩摩藩士で、工部省の役人となっていた肥後七左衛門が、高輪屋敷を金400両で「願ひ下げ」(払い下げ?)、そこから石を掘り出す作業を弥十郎が請け負ったのでした、弥十郎はここにも沢山の人数を投じた、とあります。
松之助、現場を楽しむ
7歳だった弥十郎の七男・松之助は、毎日この現場に遊びに行っていたようです。人足や石を運び出す荷車の数を見て良く覚えた、と記されています。一方で、人足たちのたき火に当たって着物の裾を焦がしてしまったり、積もった雪に踏み込んで履き物を無くしてしまったりと「いたずら」が激しかったとあります。
遊び盛りの松之助にとって、大勢の人々が大きな石を荷車で次々と運び出す姿は、子供心に強く印象に残っていたのでしょう。しかし、危ないと判断したのか、弥十郎は松之助を、祖母・幸が留守を守る宇多川大横町に帰して世話をしてもらうことになったようです。