伊勢松坂(三重県松阪市)の商人で江戸深川に拠点を置いた有力商人・湯浅屋の主人で、旺盛な文芸活動が注目され始めている、小津久足(おづ・ひさたり)。彼が天保12年春(1841)の陸奥・松島への往復の旅路を紀行文にまとめた「陸奥日記」には、その直前まで仙台藩を襲った飢饉の影響をうかがわせる記事があります。
仙台にいでゝはさすがにものごとたらひたるも、なほ荒年のなごり、あれにあれて手形通用といふになれり。こは手形といふものありて、そを金いくらとさだめたれど、こは国守ばかりのさだめにて、下にてそのさだめをもちひず、その価いやし。このことはさきにもいへるがごとし。されば嚢中より金をいだせば、蝿の血をみるがごとくによろこべども、金銀は、あるは五年見ず、あるは七年手にとらず、かるがゆゑにみわすれたれば、真偽みさだめがたきよしにて「これもあし。これもあし」とて、容易にはをさめず。「世上の通用には、われらはかゝはらず。おのがめにかなへるならでは、とり奉らず」などいふ。この手形は、他国にては米札といひ、銀札といふものとおなじたぐひ也。仙台のやうにこそあらね、今は他にもこのたぐひ、いとおほきを、かくなりゆきては、国守の勢おのづからにうせて、徳をそこなふのもとひともなるべきことぞかし。(「陸奥日記」下巻/佐藤・青柳・菱岡・高橋編2018 153頁)
仙台では「荒年」すなわち飢饉の影響で、領内では「手形」=藩札が流通しており、金(正貨)と藩札の交換比率を公定しているが、領民はそれに従わず、藩札の価値は低い。久足が懐から金貨を出すと、仙台の人々は「蠅が血を見るように」喜ぶ一方、もう何年も本物の金貨を見ていないのでどんなものか見忘れており、本物か偽物か見分けられないからと「これ(の金貨)も悪い、あれも悪い」といって簡単には受け取らない。世間で通用しているからと言っても、自分たちの目に叶わなければ受け取らない。こんなことを言われた、と記しています。
これは創作ではなく、実際の仙台での経験に基づいたものだと考えられます。
仙台の藩札については、歴史的経緯があるのですが、久足の来訪した時期と直接関わるものとして、通称「升屋札」と呼ばれる藩札(金札)の動向が挙げられます。19世紀の初頭からは大坂の商人・升屋平右衛門家を蔵元商人に任じ、升屋が運用した正貨を担保とする通称「升屋札」が、一定の信用を確保して流布していました。額面は金1切(1歩=4分の1両)と2朱(8分の1両)でした(仙台市 2004)。
ところが、天保5年(1834)年、仙台藩は升屋を蔵元から罷免します。後ろ盾を失った藩札の価値は不安定なものになります。その中で、天保7年(1836)、仙台藩領は大冷害に襲われました。藩では城下町商人や領内の富裕者から、文字通り搾り取るようにして正貨を集め、他領での米穀購入に充てます(例えば、佐藤 2017)。そのようにして集めた正貨で得られた米穀で、仙台城下町については多数の餓死者が出ることは免れました。しかし、領内に残っていた正貨のほとんどを失うことになったようです。正貨交換の後ろ盾を失った藩札は暴落。その後の仙台藩では悪性インフレに苦しめられることになりました(仙台市 2004)。
久足が仙台・松島に来訪したのは、この5年後でした。「国守のさだめを下では用いない」とか、「五年、七年と金貨を見ていない」とか、「金貨の真贋については自分の目しか信じられない」という趣旨の記録は、領民の心情を端的に描写したものだといえるでしょう。
また久足は、「国守の勢」が失われ、「徳」を失う原因、と懸念しています。通貨不安は仙台藩主の信用を損ねる、という理解は、久足のみならず、各地の有力商人の共通認識だったかも知れません。藩から多額の御用金を求められる立場にあった商人たちにとって、通貨危機を起こさないことも藩主の務めとして理解され、それが出来ない者は、領主であろうとも、厳しく品定めされていたのです。
なお天保期の正貨の不足は、升屋と仙台藩の関係や、飢饉対応にとどまるものではなく、19世紀初頭からの幕府からの大規模土木工事や、蝦夷地でのロシアとの衝突に伴う蝦夷地出兵など、中長期的な背景もあったと考えられます。その実態と歴史的経過については、まだ検討の途上にあるといえます。
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新年早々、日本では1都3県に新型コロナウイルス感染拡大の非常事態宣言が出されました。その中では、営業を制限される飲食店などへの補償金も含まれますが、十分なものとはとても言えないでしょう。無制限に資金を出しつづければ、やがて日本の通貨自体への信用不安をもたらす、というのが、財政当局の言い分でしょうか。その背景には、長年にわたって課題となっている日本の財政赤字があることは間違いありません。
約190年前の仙台藩のような、全力を振り絞っても金を確保して人々を救う、という必死さは、報道で見聞きする限りにおいて、日本政府からはこの間あまり感じられないようです。一方、現状の支出で本当に全く余裕がないということなら、遠くない将来、私の持っている紙幣が、仙台藩札のようになってしまうのかもしれない…。今年最初の投稿、ちょっと暗い締めくくりとなってしまいました。
(参考文献)
・『仙台市史』通史編5近世3(仙台市 2004年)
・佐藤大介「中井家文書に見る仙台の災害」『滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要』50、2017年 http://hdl.handle.net/10441/15065
・佐藤大介・青柳周一・菱岡憲司・高橋陽一『小津久足 陸奥日記』(東北大学東北文化研究室・東北文化研究叢書11 2018年) http://hdl.handle.net/10097/00127883
「金銀は、あるは五年見ず、あるは七年手にとらず、かるがゆゑにみわすれたれば、真偽みさだめがたきよしにて「これもあし。これもあし」とて、容易にはをさめず。」の箇所は強烈ですね・・・小林延人さんが、幕末の万延二分金の贋金問題を論じていますが、真金ですら通用力を失うこともあり得たとは本当に驚きます。
通貨維持と領主権威についても考えさせられますね。貨幣改鋳史を中心に展開してきた日本の近世貨幣史ですが、こういったところに着目することで次のステージが開けるような気がします。
ご投稿、これからも楽しみにしております。
(最近、ひょんなことで菱岡さんと交流を持つことができました。小津久足に今後も関心を向けていきたいと思っています)
高槻様 ごぶさたいたしております。コメントの承認が遅れて申し訳ございません。もっとポンポンと投稿したいものなのですが…。
「陸奥日記」は、その経路のほとんどが311の被災地(のみならず2015年と2019年の台風で被災し、さらに今年2月13日の地震でも被災…)で、歴史を再生したい、という動機で関わることになりましたが、一方で天保期仙台藩の過酷な社会状況(それゆえ、その中の「幽玄な松島」が引き立つ)を伝えるものだということですね。
仙台藩の財政、最近も質問を受ける機会がありましたが、基本的な構造がよくわかりませんね。通貨については大坂商人・升屋の蔵元就任による通称「升屋札」の発行あたりからが一つの機転で、天保5年の升屋罷免とそれに続く飢饉での信用不安が、結局仙台藩の終焉(および、きっとその後も)尾を引いていくようです。磐井郡藤沢町の商家・丸吉皆川家の日誌には、仙台藩領内の正貨・藩札・銭の相場変動その他の記載が豊富で、高槻さんが作成されたリストに倣ってこちらも数値化を、と取りかかり始めたところの第3波、第4波です。ともあれ、ご指摘いただいたことも留意しつつ、こつこつ基礎を作っていく所存です。引き続きよろしくお願い申し上げます。
追伸です。菱岡さんとの出会い、また好意がなければ「陸奥日記」に関わる事もありませんでした。京都、大阪への紀行文が多く、もちろんそれだけでなく、伊勢商人・湯浅屋与右衛門家の当主としての経済的な関係もあったでしょうし、そちらの方面での協働にも、今後つながっていけばいいな、と思います。