梅雨明けしてからの仙台は猛暑が続いています。私が約30年前にここで暮らし始めた頃は、夏でも最高気温は30度には届かない、そんな環境でした。街を歩いていると、余りの暑気に、思わず日陰を探して避難します。青葉通や定禅寺通り、そのほか仙台の街路には樹木が溢れ、日陰を探すのは容易です。
近年では、この街路の景観を活用しよう、という試みもなされているようです。8月14日夜、晩翠通(戦前の細横丁を、戦災復興事業で拡幅)で、社会実験の一環として開かれていたオープンカフェへ。新型コロナウイルスの感染拡大のなかでは、密閉した空間での会話や会食がリスクとして指摘されていますが、そのような状況への対応も含めて、仙台ではほぼ消滅した街中の屋台に代わって、ヨーロッパの街のような交流場所が生まれるのでしょうか。いずれにしても、活用を考えるような街路樹があることは、75年前の戦争で、一度は滅んだ「杜の都」を再生しようとした、戦災復興事業の「成果」の一つともいえます。
その歴史を少しずつ調べる中で、「杜の都」再生と、戦前に日本が行った植民地支配との関係を考えさせるような記事を、仙台市が発行した戦災復興事業の記録で目にしました(仙台市 1980)。街路への植林や緑地整備に当たった、当時の仙台市建設局長・八巻芳夫氏に関する、次のような記述です。
「八巻さんは丸森町出身で、旧制角田中、旧姓仙台高等工業を経てから、すぐ朝鮮総督府に勤めた。ところが、朝鮮はハゲ山だらけなので、なんとか緑を、とおもってやったのが八巻さんの並木作りの始まりであった。敗戦で故郷に引き揚げ、市役所に入ったが、待ち受けていた仕事は戦災復興事業であった」
不勉強な私は、植民地朝鮮で日本が行った植林の実態や歴史的な評価をここで述べられません。朝鮮赴任当時の八巻の活動も含めて、史料に基づいて論じる必要があるでしょう。その上では不適切なのかも知れませんが、八巻ら仙台市役所による失われた「杜の都」の再生の試みが、75年の年月を経て、現在の特筆すべき都市環境を作り出したことは、日々その恩恵を受ける立場として積極的に評価したい、とも考えています。
とはいえ、朝鮮では35年間にわたって、相手の歴史や文化を踏みにじり、かけがえのない人々の命を奪い、尊厳を傷つけた。その史実と、「杜の都」の再生が、どこかでつながっているのかもしれない、ということは、市民として心に留めておくべきなのかもしれません。
仙台城址におかれた日本陸軍の第二師団は、そこに動員された人々がどう思おうとも、近代以降にこの国が行った戦で先兵となっていたこと。その軍隊の営みが、街の人々のなりわいにつながっていたこと。凶作や災害など、どうにもならない状況に追い込まれていたとはいえ、他の国の土地に活路を求めてしまったこと。それらの積み重なりが、75年前に街を焼き尽し、「杜の都」を失う結果につながったこと。
橋本明子氏の著書(2017)では、この国で行われてきた戦争への「反省」に関わる取り組みに積極的な評価を与えつつ、今後は家族や身近な人が「加害者」であったという事実に向き合うことの必要性が提起されています。実際、私の活動でも、そのようなことを知る手がかりとなる資料を見いだすこともあります。今の人々に痛みを伴う記憶の想起と共有は、どのように行われるべきべきなのか。
あのような戦争が二度と起こらないことを願いつつ、悩みつづけていきます。
(参考)
仙台市『戦災復興余話』(宝文堂 1980年)
橋本明子著・山岡由美訳『日本の長い戦後 敗戦の記憶・トラウマはどう語り継がれているか』(みすず書房 2017/原著2015年)
私が仙台に来たのは今から52年前、青葉通りも常禅寺通りも、ケヤキは植えられてはいたのですが、まだちょぼちょぼ、高さ6メートルくらいだったでしょうか。「見られる」様になったのは私の大学時代、40年前くらいです。ただ、上杉や八幡神社近く、北山などにはうっそうとした「杜」が残存していました。杜の都は戦災と経済成長と2段構えで失われていったのですね。戦災に遭わなかった地区の景観保存にはまったく目を向けること無く、突っ走ってしまった結果でもあります。都市景観を研究しているはずの私もさぼってしまったという忸怩たる観があります。
昨日、コメントに気づきました。ありがとうございます。ご返信が遅れてしまいました。空襲を免れた町並みも消えていきました。街路樹も排気ガスと周囲の高層建築で今後どうなっていくのか。仙台が街路樹に「継承」を集約して、他は近代都市建設の名の下に、のような構図は、3.11の被災地でも見られるようです。仙台の景観の変容も、時代時代の状況のなかで取られた選択の結果なのですが、善し悪しとは別に、それぞれの立場を丁寧に明らかにしていきたいものですね。