高輪の築堤始まる―古文書に記された「高輪築堤」⑥

「高輪築堤」の工事に関わった平野弥十郎の記録の紹介、今回は明治4年(1871)。いよいよ高輪での築堤が始まったようです。弥十郎の活動についての転居は、特記なき限り桑原真人・田中彰編『平野弥十郎幕末・維新日記』(北海道大学出版会 2000年)です。

高輪の築堤始まる
 弥十郎は、この年の初め、「鉄道建築がいよいよ盛んに」と記します。八ツ山下の停車場(品川駅)敷地の埋め立てが完了し、工部省の仮役所が設けられました。ここから、高輪大木戸(宝永7年、江戸全体を守る木戸として設置/東京都指定文化財)の間での「鉄道土手の築立」が専らになったといいます。
 土砂の運搬は、八つ山の下から「仮レール」を敷設して、馬車をつかって御殿山(東京都品川区)の土を運搬した、とあります。土の掘り出しと積み入れには大勢の労働者が参加していましたが、「我が人夫最も多く」、弥十郎の代人・内田弥吉や、玄蕃を取り仕切る役割の人々は、明け方から現場で働いていました。

『江毛写真鑑』より「東都品川宿 高輪大木戸」 京都大学附属図書館所蔵 https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00013422 江戸の入り口として整備された石垣は現存。画像右手の海岸沿いに高輪の片町、奥に品川宿。高輪築堤はこの海岸沿いに建設された。

用土を求めて―工部省と兵部省の軋轢
 高輪築堤のための用土の確保について、鉄道工事を所轄する工部省と兵部省との間での交渉があったことが記されています。(防衛省防衛研究所所蔵 海軍省文書)。
 明治4年8月23日、工部省から海軍所に対して、高輪北町に隣接する海軍病院の敷地内にある300坪ほどの山地から土を掘り出したい、の打診がなされます。海軍病院は、当時は海軍省と「御雇外国人」から工部省の「御雇外国人」で、そのような「内話」がなされたので、と記されています。
 明治政府が近代化を推し進めるため、多くの外国人技術者・専門家を招聘していましたが、その「お雇い外国人」同志が話を進め、後追いで省間の正規の交渉となった、ということのようです。
 このお雇い外国人が誰なのかは文書には記されていませんが、この時期の鉄道建設に関わったのは弥十郎の記録に「シアーペル氏」と記されるチャールズ・シェパードらイギリス人技術者でした。日本でのイギリス人同士のネットワークのなかで情報共有がなされたのかも知れません。
 工部省から打診を受けた海軍所は海軍病院に打診しますが、8月25日、病院には大病人もいるので不都合なので見合わせてほしいこと、外務省から引き継いだ敷地の多くは如来寺(「高輪の大仏」として知られる/現在は品川区大井に移転)の地所であると念押しをして、工部省から提出された工事予定地の図面を差し戻しています。
 しかし9月12日、鉄道寮から海軍所に再度の用土確保の打診がなされます。重病人がいるので高輪の「海岸埋立」に土が入用だが、日数も経過したのでどうであろうか、ということ(20日も経っていないのですが…)、もともと、病院のお雇い外国人から、鉄道寮の「御雇英人」に打診してきたことである、との論理でした。
 これが通ったものか、10月8日には高輪出張の鉄道建築方から工事の「肝煎の者」が図面を持って海軍病院を訪問。その後、土の掘り出しが行われたようです。現場監督を指す「肝入の者」も氏名はわかりませんが、弥十郎に工事を請け負わせた薩摩藩士の肥後七左衛門か、8月20日に工部省雇いとなった安達久治郎あたりかもしれません。
 ところが、同月17日には海軍病院を所轄する兵部省から工部省に対し、「もはや余計に土を崩しとっており、病院で差し支えがある」との理由で、明日18日より工事を差し止めるように依頼がなされています。築堤の工事が急がれる中で、了承を契機に急ピッチで採掘が進められ、所定の場所を逸脱するほどになっていた、ということになるのでしょう。
 高輪築堤をめぐっては、兵部省の海防用地確保を理由に海上の築堤となったことが知られますが、その建設の過程においても、両者は摩擦を起こしていたのでした。

斎藤月岑編・長谷川雪旦・絵『江戸名所図会』3巻(天保5年初版)より「如来寺」。国立国会図書館デジタルコレクションより。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563382?tocOpened=1 江戸時代は「高輪の大仏」として親しまれた。高輪築堤の用土はこの如来寺の敷地から掘り出されたという。

八つ山橋の落成
 この間、弥十郎は真鶴での石材確保をめぐるトラブルを解決。その後、品川・八つ山の橋台工事が完成します。石垣の外観が「上々見付き」、たたき跡を残した技法で、石の合わせ目は「切合せ」に「せめんと(セメント)継ぎ」というものでした。
 経費は、(真鶴での)石の元代金が1013両余り、真鶴行きの費用100両、東京での石の買い入れに69両 品川での保管料35両、合計で1217両ほどでした。石材はそのほとんどを真鶴で確保していた、ということがうかがえます。安達久治郎が手がけていた橋梁も落成。賃金が払い渡されたとあります。
 日本で初めて鉄道の上を立体交差する橋、八ツ山橋が落成しました。前回紹介した絵は、この橋の完成後に、列車の姿を想像して描かれたものということでしょう。

(参考)
深瀬泰旦「海軍大医官 奥山虎炳(一八四〇~一九二六)『日本医史学雑誌』41 1995年JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09090435600、民部工部大蔵省往復 鉄道線築造用高輪病院内土取の件工部省掛合(防衛省防衛研究所)国立公文書館アジア歴史センター検索システムにて閲覧

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