12月25日午後、石巻市での用務の帰路、奥松島を訪ねました。「3.11」以前に撮影した各地のデジタル写真のうち、「20040229鳴瀬町」というフォルダで整理していた写真の中に、集落を写したものがあったからです。(写真1)
16年前の鳴瀬町には、仙台地区の江戸時代の研究者による研究合宿で行きました。会場は、同町野蒜にあったかんぽの宿松島。研究報告の内容は忘れてしまったのですが、夜の宴会で調子に乗って飲み過ぎてしまい、翌日は二日酔いで報告を聞くどころか、仙台に帰ることもままならなくなり、一人で帰ることを申し出た、ということは覚えています。その後、宿で退出時間ぎりぎりまで横になり、食堂で昼食をとって、レンタサイクルに乗って出かけたのでした。
目的地は、この地に残る石巻の若宮丸漂流民に関する史跡でした。寛政5年11月27日(1793年12月29日)に石巻を出港後に難船し、ロシア帝国での滞在をへて、文化元年(1804)年にレザノフ使節団とともに長崎に来港し、その後帰郷して「初めて世界一周した日本人」となった乗組員4人のうち2名、多十郎と儀兵衛は、江戸時代の桃生郡宮戸浜室浜、現在は鳴瀬町をへて東松島市宮戸室浜出身でした。当時、平川新さんが、当時の国際政治の中で若宮丸の漂流と帰郷を検討する研究を始めていました。合宿先から比較的近くにある史跡を、一度自分の目で見ておきたいと思ったからです。
ところで、この集落はどこだったのか。帰還した漂流民の史跡を訪ねた後、やはりこの地にあった江戸時代に外国船の監視を行う唐船番所を見に行く途中で撮影した、いうことをおぼろげながら記憶していました。あれから16年、いまはウェブ上で地図や航空写真を見て調べることが容易に出来る時代です。どうやら、東松島市宮戸室浜らしいとわかりました。偶然にも、若宮丸漂流民の出身集落でした。
三陸沿岸の集落の多くと同様、室浜も10年前のあの津波で被災していました。東松島市全体では1109人の犠牲者(注1)があり、室浜を含む宮戸地区では11名が犠牲になったとのことです(注 )。復興計画では、2011年度早々に高台移転の方針が示され、2015年3月には集団移転先の竣工した、ということのようです(注 )。
ところで、2004年は写真をどこで撮ったのか。スマートフォンで写真を撮れば位置情報が得られる現在とは違います。正確には覚えていないので、唐船番所を目指して山の中に入っていきます。しばらく歩くと、西側の海に向かってベンチがあり、そこの草木越しに集落が見えました。ただ、草木が邪魔で集落の全体が見えません。藪に分け入って、崖ぎりぎりからとらえたのがこの写真です(写真2)。
2004年の写真では手前に写っている小島をとらえられなかったので、場所が少し手前過ぎたようですが(これはもう一度いかなければですね…)、海岸沿いまで並んでいた家並みがなくなり、大きな倉庫が建っている、ということはわかると思います。
東松島市では図書館が「東松島市図書館「ICT 地域の絆保存プロジェクト」としていわゆる「災害デジタル・アーカイブ」を構築しており、その中には「3.11」以前の写真も含まれていますが、室浜集落を展望した写真は公開している中には見当たらないようでした。東松島市に限ったことではありませんが、あの大津波による被害で、現代の記憶に関わる記録が多数被災したことは確実です。地域外に残る記録をより積極的・組織的に収集していくことが、今後ますます必要ではないかと考えます(すでになされているのかもしれませんので、私の無知を晒しているだけかも知れません)。
ともあれ冒頭の写真、偶然にも撮影した、たった1枚の写真ではありますが、震災前の地域の景観や生活を思い起こす手がかりとなれば幸いです。
(注1)『東松島市東日本大震災記録誌』(東松島市 2014年)
http://www.city.higashimatsushima.miyagi.jp/index.cfm/21,1061,c,html/9307/20110311shinsai-kirokushi.pdf
(注2)谷 謙二「小地域別にみた東日本大震災被災地における 死亡者および死亡率の分布」『埼玉大学教育学部地理学研究報告』32号、2012年
https://core.ac.uk/download/pdf/199684311.pdf
(注3)細田みぎわ「東日本大震災における復興住宅のあり方― 宮城県東松島市災害公営住宅の提案」『広島女学院大学人間生活学部紀要』3、2016年
http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/hju/metadata/12138