1985年(昭和60)8月12日に起こった日航機墜落事故から、今日は35年目になります。
35年前の私は小学校6年生ですが、その日の記憶はありません。はっきり覚えているのは、連日続いた事故現場の映像に影響されて、おもちゃの飛行機で「ごっこ遊び」をしたことと、無修正の遺体が掲載された、当時勃興期にあった写真週刊誌を同級生の誰かが学校に持ち込んで、それを興味本位に眺めたというものです。小学生とはいえ、不謹慎の極み、といわざるを得ません。
郷土史、地域が中心のはずの鉄虎堂随想でなぜこのような記事を書くのか。報道を通じた事故の記憶、さらに今の自分の活動の中で、偶然ですがあの事故に関わった方々に、少しですが当時の経験について伺う機会があったこと。そして、8月12日付けの朝日新聞で、事故の遺族のお一人が、Google社が提供するストリートビューの機能を活用して、いまは慰霊の場となった群馬県上野村の「御巣鷹の尾根」をウェブ上で閲覧できるようにしているという記事に触れたからです。さっそく、「8.12連絡会」の公式サイトから閲覧してみました。
山の斜面に並ぶ碑の写真の中には犠牲者のお名前が読み取れるものもあります。「昇魂の碑」のある広場は、意外と狭いように見えました。サイトで紹介されている2015年のNHKの記事にもあるように、新しい方法で情報を発信することで事故の記憶を伝えるとともに、高齢となり登山が難しくなった遺族がWeb上で慰霊できるように、ということでもあるようです。さらに、YouTubeやマンガといった媒体での発信も行われています。
報道や書籍からの断片的な情報になりますが、この事故についての顕彰や記憶の継承には、事故直後からの遺族の活動が大きな役割を果たしてきたようです。そのことは2006年の日本航空による「安全啓発センター」の開設や、2011年の国による事故調査報告書の普及版の公表にもながりました。事故現場となった群馬県上野村の慰霊施設では、事故から30年目の2015年に展示棟が改めて整備され、救難に当たった上野村の人々の証言が展示されたということも、今更ながら知りました。
あの事故は、長い時間をかけて、人々の努力を通じて、当事者の経験から社会的な記憶、そして地域の歴史へと移り変わりつつあるようです。それを裏付ける資料も、時間をかけて世に出てきています。これらのことは、「三・一一」の伝え方、記録の残し方ということに対しても、多くの示唆を与えてくれるように思います。
末筆ながら、改めて犠牲になられた方のご冥福をお祈りいたします。
参考
8.12連絡会公式サイト https://1985osutaka.jimdofree.com/
2019年撮影 御巣鷹山ストリートビュー https://goo.gl/maps/TGWG6HY8xsJvE6gW6
朝日新聞Web 移ろう御巣鷹、教訓の尾根 遺族が撮影し公開、「思いはせて」 日航機墜落35年 https://digital.asahi.com/articles/DA3S14583944.html *会員限定記事
ハフィントンポスト日本版 日航ジャンボ機墜落事故から35年。航空史上最悪の事故を振り返る【画像】 https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5f31f838c5b64cc99fdd0e8c